今日図書館(山中湖情報創造館)で借りた本、ケッサク。日本各地に始皇帝の命を受け不老長寿の薬を求めて日本に來て集団定住したという徐福の伝説が残っている。富士北麓にも「昔中国から徐福という人がたくさんの人を連れて富士北麓に來た。彼らは秦氏を名乗ったが、後世、羽田と改名してこの里に住んできた」という言い伝えがある。著者で博覧強記の羽田武栄氏はれっきとした富士北麓に多数残る羽田姓の一人。日中の膨大な文献を調べ、ロマンあふれる新説を発表。
この本:
とにかく膨大な文献を駆使して、古今東西の諸学説を紹介されているので、どこまでが引用で、どこが氏のオリジナルなのか、浅学の散人にはわかりかねたが、こういう当たりだろうか(かなり意訳):
う〜ん、そうだったのか。山中湖村の長池地区とは、今まさに散人が居るところ。そんな由緒あるところに住めてとても光栄。
山中湖こそ日本の弥生文化の原点なのだ。それにしては山中湖では寒すぎてコメが育たない。まあその後、気候変動があったのだろう。
ちなみに羽田武栄氏は小型船舶一級操縦士でもあられる。航海術の知識を駆使して、当時の中国の航海術の水準から推定できる日本への渡航ルートの検証もやられている。これも本格的で面白い。
徐福ロマン—弥生時代のフロンティア 羽田 武栄
亜紀書房 1993-01
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とにかく膨大な文献を駆使して、古今東西の諸学説を紹介されているので、どこまでが引用で、どこが氏のオリジナルなのか、浅学の散人にはわかりかねたが、こういう当たりだろうか(かなり意訳):
- 1923年、山中湖西岸の長池村に住む故羽田正次氏は畑を耕作中に地下60センチのところから金色に光る印象を見つけた(写真あり)。
- これを複数の中国の専門家に鑑定して貰ったところ、1700〜1800年前のものと鑑定された。つまり紀元3世紀の初頭には山中湖に大陸からの渡来人が居たことになる。
- 紀元三世紀といえば、漢末魏初の動乱期。黄巾の乱のあった頃。この印象の文字は黄巾族の将軍を表すらしい。魏の曹操に討たれた黄巾族の敗残兵が日本に逃げてきて山中湖に定住したのだ。
- 徐福より時代が下がるが、きっとその前に富士山麓に住みついていた徐福?一族を頼って逃げてきたものであろう。西日本は魏と同盟関係にあった邪馬台国が支配していたからはるばる東にやってきたのだ。
- 徐福が本当にいたかどうかははっきりしない。むしろ徐福というのは伝説で、始皇帝時代の秦人が多数バラバラと日本に渡ってきていた可能性が強い。彼らこそが日本に弥生文化をもたらした人達だ。
- ではなぜこれら秦人達は徐福の子孫だと名乗るようになったのか。これは始皇帝が悪者である(焚書坑儒)との唐時代の思想が日本に流れ込んだため、悪者の名前を名乗ることを恥じて祖先は徐福だと偽ったためだ。
う〜ん、そうだったのか。山中湖村の長池地区とは、今まさに散人が居るところ。そんな由緒あるところに住めてとても光栄。
山中湖こそ日本の弥生文化の原点なのだ。それにしては山中湖では寒すぎてコメが育たない。まあその後、気候変動があったのだろう。
ちなみに羽田武栄氏は小型船舶一級操縦士でもあられる。航海術の知識を駆使して、当時の中国の航海術の水準から推定できる日本への渡航ルートの検証もやられている。これも本格的で面白い。
Posted: Wed - July 5, 2006 at 05:49 PM Letter from Yochomachi 山中湖 Previous Next Comments
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