2005年4月18日月曜日

山中湖の観光開発の歴史


山中湖村と河口湖町はどうしてあんなに雰囲気が違うのか?


日本の観光地といえば、いずれも俗悪な看板が立ち並ぶ商業化された場所というイメージがあるのだが、山中湖村は観光地とはいえ落ち着いた街並みがうまく自然とマッチした例外的な存在。同じような立地条件にある近隣の河口湖町と対照的でもある。なぜか。この本を読んではじめてその理由を知った。
富士北麓観光開発史研究
内藤 嘉昭

学文社 2002-03
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地方の町おこし、また日本の「観光立国」の在り方を考えるのにも、いろいろ参考になることが書かれている。

内容抜粋(メモ):
  1. 富士北麓の「観光」開発は、近世の富士講に始まる。農業に適さない寒冷地ゆえサービス業に活路を求める。川口村と上吉田がその中心地だったが、川口村は「顧客ターゲット」を間違ったために廃れ、大衆を顧客に取り込んだ上吉田が成功。御師という一種の宗教的神主が関東地方の檀家を囲い込んでいた。
  2. 明治時代になると横浜などの外国人が避暑にやってくるようになる。馬車鉄道が敷かれ、精進湖に外人専用ホテルができる。
  3. 大正時代、当時の山梨県知事によって北麓の観光開発計画が立てられる。鉄道・道路の整備、自然保護、諸施設の整備、別荘地の開発の四点からなる計画である。
  4. 具体的な推進母体は民間会社である富士山麓電気鉄道株式会社と富士山麓土地株式会社が推進。株主特権として安価で県有地の購入もしくは貸し付けが保証される。
  5. 顧客ターゲットを「一般大衆」としたい県側と「上流層」に焦点を絞りたいとする鉄道会社側と対立。結局、主に鉄道会社側の意向に沿って開発が進められた。中心的人物は鉄道会社社長の堀内良平。軽井沢を範とする別荘地の開発を念頭に置いていた。
  6. 堀内は当時のオピニオンリーダーであった国民新聞主筆の徳富蘇峰に新聞社経営の援助を行ったり、山中湖の別荘を提供したりし、その見返りに国民新聞で北麓の宣伝を頼んだ。その他各界の著名人を山中湖に引き入れていく。
  7. 当時のエリート教育機関であった大学の施設を山中湖に誘致。学生が卒業して出世すれば、お金を持ってまた帰ってくるとの目算。
  8. このように山中湖には当初から明確な基本計画があり、それに沿って実行する信念の経営者がいた。一方、河口湖の観光開発はどちらかというと自然発生的なもの。また鉄道会社側も河口湖には一般大衆を誘致するような施設を積極的に建設し山中湖とは区別していた。
  9. 山中湖では、一泊で帰る団体観光客ではなく、長期滞在型のリゾート客をターゲットとする政策がとられた。
  10. 戦後一貫して河口湖への観光客は山中湖への観光客を大幅に上回っている(約二倍)。しかし財政は山中湖村の方が圧倒的によい。人口が三分の一にしかすぎない山中湖村の方が河口湖町より税収が多い。
  11. 理由は、ファナックからの法人税もあるが、固定資産税の収入の差が大きい。
  12. 河口湖町は、富士山麓ではめずらしく、農業が可能な地域であり(コメが作れる)、サービス業への転換が遅れた。また農業をやっていてお金もあったので地元資本による開発が中心となった。一方、山中湖村は農業ができない極貧地域であったため、サービス業に活路を見いだすしかなかった。また資本も地元以外の資本が都会的センスで開発を行った。

以上、「意訳」的な抜粋。もちろん山中湖にもいろいろな地域があり、それぞれに事情が異なるが、大筋ではこういうことだろう。顧客層がどんどん裕福になっているなかで今後の日本の「観光立国」を考えるにあたり、参考になると思う。だてに農業が可能であるがために河口湖町がサービス化の波に乗り遅れ、それでもがむしゃらにより多くの観光客を呼び寄せながら、結局山中湖村より貧しくなったというのは、示唆的でもある。

Posted: Mon - April 18, 2005 at 10:17 AM   Letter from Yochomachi   山中湖   Previous   Next  Comments (3)  

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