2006年7月28日金曜日

沢村幸弘『サワムラ式バス釣り大全』……初心者はスプリットショットでボトムを引け!



東京に帰っても頭は釣りのことばかりで落ち着かない。糸井重里が推薦していた本(サワムラ式バス釣り大全)を買った。決め撃ち式で書かれた指導書で、これはよさそう。

著者の沢村幸弘氏は、バス釣りのプロで、何度も「アングラー・オブ・ザ・イヤー」に選ばれた人。沢村氏は、何年やってもバスは釣れないという話を聞くがそれは「間違った方法で釣ろうとしているからであり、バスは初めての人でも釣り方さえ知っていればいとも簡単に釣れる魚である」と断言。初心者から中級者へと段階ごとに分けて釣り方の指導を具体的にされる。これは公文式みたいだ。この方法で練習しよう!

最初は初心者に対するアドバイス。とても参考になりました。第一章の要旨をメモ:
  1. 道具はスピニング・リール。ロッドと合わせて3万円ぐらいのものを買うこと。
  2. ラインはフロロカーボンライン。3ポンドのもの。
  3. ルアーは4インチのグラブ。フックサイズは1番。セットはあくまでも正確に。
  4. フックから20センチのところにスプリットショットを付ける。重さは数種類用意し、どれにするかは自分でボトムを引きずって判断する。
  5. キャスティングはオーバーヘッド。ルアーがライナーで飛んでゆくようになるまで練習すること。
  6. 着水後必ずボトムまでルアーを沈める。ルアーが着底したら、横向きにロッドを引く。蟻の這う如くゆっくりルアーを引き寄せる。リールで巻き取って、またロッドで横に引く。ボトムをロッドでずるずる引く感じがつかめるまで練習を繰り返す。
  7. アタリかなと思ったらロッドを止める。岩や石だったらそれ以上動かないが、魚であれば反応がある。その場合、最初のストロークの位置までラインを張らずゆるめず巻いて、そこからストロークの大きなアワセをする。
  8. ルアーが着水してからボトムまで落ちる前に食いつくバスもいるので、キャストしたあとのラインの動きは常に見ておくこと。これは次の段階の技術につながる。
  9. 釣れないときは場所を移動する。
  10. 釣りに出かけたら絶対にノーフィッシュ(ボウズ)することはないという自信がつくまではこの方法で釣ること。釣らないと永遠に始まらない。必ず釣れると自信がついたら次のステップに進む。

普通の参考書は、あまりにも盛りだくさんで多くのことを両論併記で解説していて、読者はどうしたらいいのかわからなくなってしまうのが多いが、この本にはそういう「迷い」はない。こういう本が好きだな。釣りの参考書ばかりじゃないよ。

Posted: Fri - July 28, 2006 at 10:18 AM   Letter from Yochomachi   山中湖   Previous   Next   Comments (1)

2006年7月26日水曜日

山中湖:バスを釣ったぞ!〔散人の初体験〕


昨日買った道具でいよいよバス釣りに挑戦。悪戦苦闘の数時間。でもなんとかバスが一尾釣れた。20センチもあったぞ。


場所は山中湖ヨットハーバーの桟橋。あのあたりはわりかし良い釣り場らしく、桟橋の先20メートルぐらいに釣りボートが二三隻がいつも場所取りをしている。桟橋からは同じ条件。やるぞとルアーを投げる。でも、なにぶん技術が未熟。。やたらにラインが絡むし、ルアーを投げてもあらぬ方向に飛んでしまう。飛ぶのはまだましで、足下とか後ろ側に飛んだりなんかする。今日の時間のほとんどは、ハリの付け替えとか、ラインの絡みほどきとか、リールへの新たなラインのまき付けとかでつぶれた。でも、釣れたのです!


記念写真:





結構でかかったですよ。小さく見えるのは、横に立っている散人が巨漢だから。

実は、このバス、「釣った」と言うよりは「釣れた」という魚。ラインを絡ましてしまって修復作業をしている間、ワームとハリは出しっぱなしにしていた。それにバスが勝手に食いついたのだ。桟橋の下にバスが棲みついているらしい。何もルアーを遠くに投げる必要などなかったのだ。手釣りで上げた。

「釣れた釣れた!」と大喜び。ハーバーマスターに見せに行ったが、ハリを付けたままバスを持ち運んではいけない、死んでしまうと注意された。ハリはすぐ外しバスの下顎を持つのだそうだ。大急ぎで写真を撮って貰ってからリリース。ものすごい勢いで逃げていった。釣らせてくれてありがとう、バス君。

本日の費消品:
  1. 釣り糸、約80メートル。絡ましては切り、絡ましては切り、ついに80メートル分捨てた。その度にフックに糸を結びつけたので、ユニノットはかなり習熟した。
  2. ハード・ルアー(ワカサギ型)一個。これは本当にワカサギみたいに動く。投げて引くと、それめがけてバスが攻撃をかけるのが水上から見えるぐらい。これは良いなと思っていたら、たまたま出来たナイスキャスティングだと思ったとたん、どっかに飛んでいってしまった。ルアーの結び方が甘かったようなのだ。ちゃんと四回結んだんだけどなー。惜しい。
  3. フック、ワーム。十個ぐらい。
  4. ロッドの一番先を踏んづけて折ってしまった。ま〜、ちょっと短いロッドだと思えばどうってことはない(はず)。保険付きの棹だし気にしない。

合計すると、かなりの散財。釣り具インダストリーは、儲かるわけじゃ。散人はあいつらへの「貢ぎ君」になる予感がする。まあ、いいか。

Posted: Tue - July 25, 2006 at 06:47 PM   Letter from Yochomachi   山中湖   Previous   Next  Comments (5)

2006年7月24日月曜日

山中湖:バス釣り一念発起


バス釣り道具をそろえたぞ! 散人は、断固「バス釣り道」に専念する、と今日ここで宣言。



散人は、自慢じゃないが生まれてかたこの方、釣りはやったことはない。指導者に恵まれなかったこともある。アメリカでは父親の役目とは息子に釣りと狩猟を教えることだと書いてあるのを読んだこともあるが、日本では事情が違う。散人の父親はとても釣りなどやる余裕がない一生懸命生活を送ってきた人なのだ。だから散人は小さいときに誰も釣りを教えてくれなかったので釣りというゲームを知らずに人生を送ってきた。それを不満だとは一切思わなかった。幸田露伴なんかの文章に江戸趣味人の釣り三昧生活の記述があるが、正直「あんたらサムライは、え〜身分だったな〜」と嫌悪感すら感じたものだ。ところがこの歳になって、考えを変えた。

考えを変えさせられたのは、この本である:

誤釣生活—バス釣りは、おもつらい (単行本) 
糸井 重里 


なんでこんな本を読んだのかというと、先の週末に釣りキチガイのある人が来るかも知れないというので釣りの本を読んだもの。いわば不純な動機による読書。でも、これがメッポウ面白かったのである。「釣り」というものに対する散人の長年の偏見を払拭したのであった。

糸井重里は言う「釣りを知ればボウズ(釣れないこと)はない!」と。バス釣りは「自然との調和を楽しむもの」というような軟弱な東洋哲学的な時間つぶしではなく、まさに「アメリカ資本主義そのもの」であり、「努力すれば、それだけの結果があるスポーツ」なのであると。定石をいかにたくさん研究し練習するかが勝負だという。「バスは世界で一番その生態が研究され尽くしている魚である」とも。う〜ん、散人の受験勉強型ガリ勉本能が、俄然として目覚めてきたのである。勉強・プラクティスをすれば、その分だけの結果が出せる! なんたるうれしい魅惑的な言葉であるか!

で、けさ山中湖ヨットハーバーのオーナーに、バズ釣りをしてみたいといってみた。ヨットハーバーの桟橋で釣っていいという(メンバーからは桟橋使用料はとらないだって)。釣り道具屋(センターフィールド)も紹介してくれた。行ってみると妙齢の店主の奥様がひとり。亭主は留守なので、釣り具選定の指導は出来ないが亭主が帰るまで私のロッドで遊んでいてくださいと上等(らしい)ロッドとルアーを貸してくれた。ルアーの飛ばしかたの指導をしてくれたが、なかなか難しい。夕方まで練習したが、ついにまともに飛ばなかった。糸が絡まるだけ。

夕刻、ハーバーマスターが釣具屋に送ってくれたが、彼は釣具屋の主人に曰く「一番安いので良いよ」と。俺が桟橋で悪戦苦闘しているのを見て気の毒に思ってのことだと、勝手に邪推する。そうなると意地になって、帰ってきた若い釣り道具屋主人と奥様に見栄を張ってそれなりの道具をそろえる。エライ大散財。

大散財をした以上、後には退けない。明日から「バス釣り道」を極めると、固い決意。

俺が釣り竿を担いで道を歩いているのを見た山中湖不動産(株)の家族(お父さんと奥さんと娘さん)と立ち話。バス・ルアーは沖から岸に向かって投げるのがいいと。ヨットを出して、沖でアンカリングしてバスを攻めるのがいいのか。バス道はなかなか奥が深いらしい。やるぞ!

さらに道を歩いていると「橋本さんじゃないですか?」とかっこいい若い人が声をかけてくれた。レイクサイドキャビンのオーナーだという。昔の散人の紹介文を読んだお客さんがやって來たという。

山中湖にいると、いろいろ若い人とコンタクトが増えて、老人はただうれしい。今日は散人の「バス釣り一念発起記念日」。


Posted: Mon - July 24, 2006 at 08:51 PM   Letter from Yochomachi   山中湖   Previous   Next  Comments (2)

2006年7月21日金曜日

ダッチオーブンで鶏粥を作ったら、うまかった!



山中湖気温20℃。今日も寒い。暖かいものを食べたくなって鶏粥を作った。超簡単。

材料:
冷凍若鶏(ロックヘン) 一羽
コメ          150cc
ショウガ        少々
塩           少々
ごま油         少々

作り方:
10インチのダッチオーブンに解凍したロックヘン(500グラム)を丸ごと入れる。水を入れる(8割程度、3.5リットル程度か)。コメを入れる。吹きこぼさないように超弱火で二三時間。ショウガのみじん切りと塩とごま油で味付けをする。おわり。

食べるとき、好みでネギ、ミョウガのみじん切りなどの薬味を加えてもいい。鶏は柔らかくなっているのでスプーンで十分ほぐれる。鶏の解凍は電子レンジで20分。その間に鍋の水を湧かしておけば合計時間が節約できる。この粥は二日酔いの時にいい。昼に三分の一程度食べたが、あと二回分の食事もこれで問題なし。冷凍ロックヘンは米国製。ニッシンで500円程度。

ダッチオーブンは、男のひとり暮らしに重宝する。ちなみにシエラカップでこの粥を食すると家にいながらキャンプをしている気分になる。コメの計量はシエラカップでやった(2/3カップで150cc。一杯だと300cc。上が広がっているのでややこしい)。

Posted: Fri - July 21, 2006 at 02:03 PM 

2006年7月17日月曜日

日本焚火学会による『焚き火大全』




今日ちょっと寒かったので読みたくなった本。日本焚火学会というのがあるらしい。その面々がまとめた「焚き火の全て」:
Amazon.co.jp: 焚き火大全: 本: 吉長 成恭,中川 重年,関根 秀樹: "焚き火の技術、燃材・道具、伝承文化、用途などを紹介。火と人間の歴史、焚き火の種類と分類、材料と道具、技術と法則、焚き火のクッキング、環境教育、文芸と絵画などについて論じ、焚き火の魅力、醍醐味に迫る。 "
う〜ん、焚き火とは奥が深い技術なのだ。散人は修行が足らぬ。

薪ストーブがいいと盛んに勧めている。散人も薪の燃えるのを見るのが好きだ。メキシコにいたときはよく暖炉を焚いた(あそこは昼間はいいが夜が寒い)。火を見つめていると、不思議に心が落ち着き、神秘的な気分になってくる。でも、やっぱり効率が悪い。

今使っているいるストーブは石油の煙突ストーブ(トヨトミ)。これでも冬期は家が暖まるまで48時間かかる(その間水道が凍るので止水弁を開けられない)。管理会社はもっと強力なストーブにして欲しいと言うが、一旦暖まると快適だし、煙突ストーブは換気効果が抜群にいいのでそのままにしている。薪ストーブにしたらどれだけ時間が掛かるかわからないし、管理会社にかける手間暇を考えれば諦めざるを得ない。せめて焚き火で遊ぶ。

石油・薪どちらも使える煙突ストーブがあったらいいな〜。

Posted: Mon - July 17, 2006 at 07:13 PM   Letter from Yochomachi   山中湖   Previous   Next   Comments (3)

2006年7月14日金曜日

『考証 三浦環』(田辺久之)


今日読んだ本。山中湖と深いゆかりがあるという世界的オペラ歌手三浦環の考証:

Amazon.co.jp: 考証 三浦環: 本: 田辺 久之: "新しい女性像“蝶々夫人”のプリマドンナ三浦環画期的な書誌年譜を付して論考した必読の書。"

三浦環のお墓は山中湖平野の寿徳院にある。山中湖では三浦環と地元民の交流が感動的に語られることが多い。どんな人か興味があって、この本を借りてきた。緻密な本格的考証である。

メモを二三:
  1. 三浦環の最初の夫で、瀬戸内晴海が小説にもした軍医の藤井善一。環との離婚は明治42年3月だが、その年の12月、藤井は山県有朋の姪に当たる勝津登喜(20歳)と再婚、牛込区大久保余丁町32番地に新居を構えたとのこと。折しも永井荷風がアメリカ・フランスから帰って余丁町79番地の実家から慶應義塾に教鞭をとるために通い出した頃である。軍人嫌いの荷風のことだから、同じ町に住んでいても口をきくことはなかっただろうが、マスコミをにぎわした藤井・環の離婚事件は聞き知っていただろう。下世話な話が好きな荷風のこと。何か書いているかも知れない。断腸亭日乗の人名索引が手元にないが、あとで調べてみよう。
  2. 三浦環が母親登波とともに山中湖平野に疎開したのは、昭和19年3月。この年の厳しい寒さのために翌年4月には母が他界(享年88)。近所の寿徳院に葬る。この年は20年ぶりの寒さだったとのことで、満足な暖房設備が備わっているはずもない「民宿」ではとても冬が越せなかったのである。環は母のあとを追うように昭和21年5月26日、東大病院で死去。本人の遺言により母親と一緒に葬られることになった。寿徳院の墓は投書「三浦環の墓」と墨書された一本の墓標であった。墓碑が作られたのは昭和37年のこと。山中湖村教育委員会により記念碑が作られたのは昭和63年のこと。
  3. 遺産は養子となったマネージャーに。でもほとんど残って居らず「郵便貯金が26円しかなかった」という話も。環が最後に住んだ旭日丘の三井家の別荘は(彼女の死後)再三にわたり立ち退き要求が出されている。
  4. 旭日丘の別荘に保管されていた三浦環の舞台衣裳は100枚以上あったが、管理が杜撰で、地元の中学校の仮装行列に使われたりなんかした。

世界のプレマドンナ三浦環も、戦争のおかげで翻弄された。地元民との交流の様子は、何も書かれていない。コメも採れない寒冷地での生活は過酷であっただろう。88歳の母親をつれて、零下20度近くにもなる山中湖の普通の民宿で冬を越そうというのは、あまりに無謀であった。武田百合子の『富士日記』をみても、昭和40年代になっても原始的な暖房設備しかなかったことがわかる。まして戦時中だ。

戦後驚異的な進歩を遂げたものはいろいろあろうが、民間住宅の暖房性能はその中でも随一の変化ではないか。昔はよかったのではなく、昔はひどかった。

Posted: Fri - July 14, 2006 at 03:36 PM   Letter from Yochomachi   山中湖   Previous   Next  Comments

2006年7月5日水曜日

『徐福ロマン—弥生時代のフロンティア』(羽田 武栄)……山中湖が弥生文化の元祖?


今日図書館(山中湖情報創造館)で借りた本、ケッサク。日本各地に始皇帝の命を受け不老長寿の薬を求めて日本に來て集団定住したという徐福の伝説が残っている。富士北麓にも「昔中国から徐福という人がたくさんの人を連れて富士北麓に來た。彼らは秦氏を名乗ったが、後世、羽田と改名してこの里に住んできた」という言い伝えがある。著者で博覧強記の羽田武栄氏はれっきとした富士北麓に多数残る羽田姓の一人。日中の膨大な文献を調べ、ロマンあふれる新説を発表。


この本:
徐福ロマン—弥生時代のフロンティア
徐福ロマン—弥生時代のフロンティア羽田 武栄

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とにかく膨大な文献を駆使して、古今東西の諸学説を紹介されているので、どこまでが引用で、どこが氏のオリジナルなのか、浅学の散人にはわかりかねたが、こういう当たりだろうか(かなり意訳):
  1. 1923年、山中湖西岸の長池村に住む故羽田正次氏は畑を耕作中に地下60センチのところから金色に光る印象を見つけた(写真あり)。
  2. これを複数の中国の専門家に鑑定して貰ったところ、1700〜1800年前のものと鑑定された。つまり紀元3世紀の初頭には山中湖に大陸からの渡来人が居たことになる。
  3. 紀元三世紀といえば、漢末魏初の動乱期。黄巾の乱のあった頃。この印象の文字は黄巾族の将軍を表すらしい。魏の曹操に討たれた黄巾族の敗残兵が日本に逃げてきて山中湖に定住したのだ。
  4. 徐福より時代が下がるが、きっとその前に富士山麓に住みついていた徐福?一族を頼って逃げてきたものであろう。西日本は魏と同盟関係にあった邪馬台国が支配していたからはるばる東にやってきたのだ。
  5. 徐福が本当にいたかどうかははっきりしない。むしろ徐福というのは伝説で、始皇帝時代の秦人が多数バラバラと日本に渡ってきていた可能性が強い。彼らこそが日本に弥生文化をもたらした人達だ。
  6. ではなぜこれら秦人達は徐福の子孫だと名乗るようになったのか。これは始皇帝が悪者である(焚書坑儒)との唐時代の思想が日本に流れ込んだため、悪者の名前を名乗ることを恥じて祖先は徐福だと偽ったためだ。

う〜ん、そうだったのか。山中湖村の長池地区とは、今まさに散人が居るところ。そんな由緒あるところに住めてとても光栄。

山中湖こそ日本の弥生文化の原点なのだ。それにしては山中湖では寒すぎてコメが育たない。まあその後、気候変動があったのだろう。

ちなみに羽田武栄氏は小型船舶一級操縦士でもあられる。航海術の知識を駆使して、当時の中国の航海術の水準から推定できる日本への渡航ルートの検証もやられている。これも本格的で面白い。

Posted: Wed - July 5, 2006 at 05:49 PM   Letter from Yochomachi   山中湖   Previous  Next   Comments

2006年7月3日月曜日

富士山:滝沢林道はなかなか快適!



富士山麓には無数の林道があるが、多くの林道は一般人は乗り入れできない。その中で滝沢林道は誰でも入れて、おまけに4合目まで登れる。

139号線の富士浅間神社の横から吉田口登山道に入る。まっすぐ富士山頂上を目指して直進。数キロ登ると中の茶屋という茶店。そこを左に曲がる。ここが滝沢林道の起点。ここから4合目まで12キロ。標高が上がるにつれてどんどん植生が変化していくのがわかり、植物のお勉強にもなる。

すれ違いも十分可能な舗装道路。ところどころに駐車スペースもあり、地元の人はそこで車を駐めて横道に入って山菜採りなどをしている様子。ただし富士山麓の原生林のほとんどは地元集落の入会地なので、権利を持っている人しか山菜を採ることが出来ない。また立て看板によると、森のなかはマムシがいっぱい居てクマも出るとのこと。自衛隊の演習地にもなっているので、砲弾を見つけても絶対に触らないこととの注意書きも。くわばらくわばら。

4合目、標高2100メートルでゲイトがあり、一般人はそれ以上のぼれない。地元の関係者はゲイトの鍵を持っており、通行可能。地図によると滝沢林道は新5合目(スバルラインの終点)までつながっている。舗装林道で新5合目まであがれるなら誰もスバルラインの通行料を払わないから、これはスバルラインへの営業協力だろう。

ともあれ軟弱なカブリオレでも行ける林道コースであるが、富士山あり崖あり眺望あり、おまけに熊もマムシも(いるらしいし)、林道の面白みは充分楽しめた。途中ですれ違ったクルマは三台。お奨め。