2006年7月14日金曜日

『考証 三浦環』(田辺久之)


今日読んだ本。山中湖と深いゆかりがあるという世界的オペラ歌手三浦環の考証:

Amazon.co.jp: 考証 三浦環: 本: 田辺 久之: "新しい女性像“蝶々夫人”のプリマドンナ三浦環画期的な書誌年譜を付して論考した必読の書。"

三浦環のお墓は山中湖平野の寿徳院にある。山中湖では三浦環と地元民の交流が感動的に語られることが多い。どんな人か興味があって、この本を借りてきた。緻密な本格的考証である。

メモを二三:
  1. 三浦環の最初の夫で、瀬戸内晴海が小説にもした軍医の藤井善一。環との離婚は明治42年3月だが、その年の12月、藤井は山県有朋の姪に当たる勝津登喜(20歳)と再婚、牛込区大久保余丁町32番地に新居を構えたとのこと。折しも永井荷風がアメリカ・フランスから帰って余丁町79番地の実家から慶應義塾に教鞭をとるために通い出した頃である。軍人嫌いの荷風のことだから、同じ町に住んでいても口をきくことはなかっただろうが、マスコミをにぎわした藤井・環の離婚事件は聞き知っていただろう。下世話な話が好きな荷風のこと。何か書いているかも知れない。断腸亭日乗の人名索引が手元にないが、あとで調べてみよう。
  2. 三浦環が母親登波とともに山中湖平野に疎開したのは、昭和19年3月。この年の厳しい寒さのために翌年4月には母が他界(享年88)。近所の寿徳院に葬る。この年は20年ぶりの寒さだったとのことで、満足な暖房設備が備わっているはずもない「民宿」ではとても冬が越せなかったのである。環は母のあとを追うように昭和21年5月26日、東大病院で死去。本人の遺言により母親と一緒に葬られることになった。寿徳院の墓は投書「三浦環の墓」と墨書された一本の墓標であった。墓碑が作られたのは昭和37年のこと。山中湖村教育委員会により記念碑が作られたのは昭和63年のこと。
  3. 遺産は養子となったマネージャーに。でもほとんど残って居らず「郵便貯金が26円しかなかった」という話も。環が最後に住んだ旭日丘の三井家の別荘は(彼女の死後)再三にわたり立ち退き要求が出されている。
  4. 旭日丘の別荘に保管されていた三浦環の舞台衣裳は100枚以上あったが、管理が杜撰で、地元の中学校の仮装行列に使われたりなんかした。

世界のプレマドンナ三浦環も、戦争のおかげで翻弄された。地元民との交流の様子は、何も書かれていない。コメも採れない寒冷地での生活は過酷であっただろう。88歳の母親をつれて、零下20度近くにもなる山中湖の普通の民宿で冬を越そうというのは、あまりに無謀であった。武田百合子の『富士日記』をみても、昭和40年代になっても原始的な暖房設備しかなかったことがわかる。まして戦時中だ。

戦後驚異的な進歩を遂げたものはいろいろあろうが、民間住宅の暖房性能はその中でも随一の変化ではないか。昔はよかったのではなく、昔はひどかった。

Posted: Fri - July 14, 2006 at 03:36 PM   Letter from Yochomachi   山中湖   Previous   Next  Comments

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